ああああ

漫画・本・映画・演劇・その他コンテンツの感想を書く場としてがメイン。日本語の練習を兼ねています。

3/31の日記と運とプレイングとコミュニティ

昨日の夜、夢ノ島越前公演さんとご飯を食べた。
出会って5年経つが、奇妙な関係で、年は4つか5つか上の、先輩か友人のような方である。家族内や、小・中・高において、年上の立場の人間と適切なコミュニケーションをする経験に欠けており、大学においても、社会的な要請のもと儀礼的な経緯を示して交際する経験を持たなかったため、24歳にもなって上手く立ち回れない。新入社員研修でなんとかしてほしい。

23時ごろに新宿で別れ、友人と合流し、矢向駅へと向かった。デュエルマスターズのCSに出場するためである。
池袋での待ち合わせでもたついたため、終電ギリギリの移動となった。プレミアムフライデーの終電間際の>?線は、非常に混んでいて、ソーセージのようにみちみちに詰まった車内にふとすのような間隙があるかと思えば、吐瀉物である。なんなんだこの街は、と、慣れ始めていた東京での暮らしに、陰が差した。「こんなもんだよ、東京って」と友人が言った。こんなもんが当然だと思いたくはない。*1
座った車内の隣の席では40を過ぎた銀髪混じりの痩身サラリーマンが酔って眠り、膝を開いて、頭をだらりと僕の肩に載せてくる。幾度か肩を上げて抵抗すると、彼が目覚めた。僕を怪訝そうに見てくる。なにか文句でもあるのか? と私は自らの正当性を主張するように睨みかえす。彼はぶつぶつなにかを言っている。「はい?」と、僕は恐怖を押し殺して、どこか笑い出しそうに訊く。裏返らないよう声が高くなった。のどが渇いてレモン味の炭酸水を飲む。「飲むな、って言ってるんだよ」と、酔いからか、矜持からか、姿勢を正して、私に聞こえるか聞こえないかの声でつぶやく。いや、あなた、酔っ払って、脚開いて、知らん若者に身を任せていた自分の姿をご存知ですか。友人と一緒にいることを気にしてか、酔った見知らぬオッサンの理性に信頼をおけなくてか、単に臆病からか、理路整然とした反論はその断片すら僕の口から出てこず、嘲笑するように「は、はは」と肩をすくめ、視線を合わせるのを止めた。オッサンは原宿で降りた。

1時前にカードショップに着いた。最近デュエルマスターズフラゲに厳しいらしく、発売日前日の販売は通報の対象となるらしい。そこでこの店舗では、深夜営業を行い、深夜から翌日朝11時からのCS(中規模な公認大会)に合わせて新しいパックの販売を行っているのだ。
ちなみに、今回のCSは、参加費2000円(!)で、144人程度が参加、パック3カートン山分け方式で、上位16名で新弾がもらえ、それ以上になると特別な装丁のカードが貰える。知らないうちにデュエルマスターズも高年齢化し、お金の集め方に工夫をするようになったのだなぁ。モノ消費よりコト消費。

この語りからわかるように、僕は全然詳しくない。中学、高校までやったりやらなかったりしていたが、東京の友人と連れ立って、賑やかしに来た次第である。夜通し指導を受け、翌日の大会に備えた。
深夜のカードショップは25人程度のプレイヤーたちで賑わっていたが、めっちゃ五月蝿かった。これは偏見だが、カードゲーマーはウルサイ。カードゲーマーは4~6人でグループを作り、ハンドルネームで呼び合い、表情筋が死んでいて、メガネを掛けていて、髪がワックスでキマっていて、にきびがあり、音量の定まらない声でゲーム展開の理不尽さを野次る。何故他の客の存在に気を配れないのだろうか? それは、大学生にもなってカードゲー……やめよう。*2
まぁ、ブンピカのようなものである。自分が入れないブンピカ。そんなのが2,3個一つの部屋に集まっていたら、想像するだに気分が暗くなるだろう。ただ、彼らのホモ・ソーシャルな、かけられる冷水が存在しないヒステリックな掛け合いは、一周回って面白く感じられる、瞬間もあった。

机に突っ伏して3。5時間ほど仮眠を取り、大会となった。

僕の成績は○×○○○○で予選を突破し、本戦×でベスト16だった。
使用デッキはアナカラーのシャコガイルコントロール。バウンスとハンデスで時間を稼ぎつつアドを稼ぎ、シャコガイルでエクストラウィンを狙うデッキだ。対応力がモノを言うデッキで、ろくに環境も知らない人間が使っていいデッキかどうかは疑問である。ちなみに相手は<ジョーカーズ><デュエにゃん><デスザク><墓地ソ><スザク><墓地ソ>‐<青黒ハンデス>だったと思う。
とにかく僕は相手のデッキのカードの効果もわからないことがあるし、効果の処理もたまに忘れるし、判断間違えるし、自分のデッキをシャッフルするたび手が震えてこぼすし、と最悪だったのだが、それでも勝ってしまった。となるとどうだろうか。相手は気分がよくない。

CSに出るようなプレイヤーは、まぁ大学生前後が多く見えたが、彼らは環境を吟味し、自分のデッキを作り、回し慣れた人々だろう。気合を入れて大会に出たら、相手がヘラヘラした初心者で、ミス丸出しのなめプレイをちんたらした挙げ句、自分に黒星を付けた。そりゃあ憤懣やるかたなかろう。そして彼らは試合後仲間内に戻り、僕の悪口を声高に言うのだ。
特に4戦目はひどい運ゲーだった(手札がサルトビジャイアント1枚で、NS→場のバイケン効果で1ドローでバイケン引く→サルトビ効果でサイゾウミスト引く→サイゾウミストでテック団置いてアタッカー全処理)し、5戦目もクロックを引いたら負けという状態で、TブレイクしてからWブレイクをしたら、終了後相手がたまらず指摘してくれた。ありがたいなぁ。


デッキの相性や、シャッフルによる運要素という自分に御しきれない要素を含むカードゲームを愛好し、そして初心者の僕に負けて怒り悲しむ人々(全てのプレイヤーがそうというわけではない)。
一見尤もだが、その不確実性を愛せないなら、何故そんなゲームをやるんだろう。

そして、僕がよくわからない点は、彼らは僕のミスに厳密であるという点である。例えば「ターンの終わりに一枚カードを引いてもよい」という効果を、僕は一度忘れた。「……で、ターンエンドです。あっ、エンド時に」「いや、もう宣言しちゃったんで」と。「最適プレイへの忠実さ」、つまり、シャッフルの後配置されたカードの順列とじゃんけんの結果によって決定される最適な進行の希求と「与えられた条件下での勝利への欲求」が、あまり噛み合っているようには見えない。もちろん、公式大会なのでルールに厳密であるのは当然だ。しかし、理性的な戦略の決定を重視する一方で、ちょっとした過失に厳しく、かつ、それを補う運要素を受け容れられないのは、矛盾してないか。してないかな? この件については、議論の余地がある。(この記事全体に悪意を感じる。自己批判を他者に投影して行っているかのようだ。)

これは、麻雀ガチ勢と麻雀をしたときにも同じことを感じた。麻雀は運ゲーなので、僕でもたまには勝つ。するとこう言う。「最適に行動したねんけどなぁ」。おう、そうだな。しきりに反省するので、僕は恐縮する。そらぁ、1000回打ったら君が勝つと思うよ……。でも今回はね……。そして僕はそれを喜んではいけないのか?(この記述は個人を対象とした悪口ではありません)

デュエルマスターズもそうで、1000回やったら僕なんか150回ぐらいしか勝てないんじゃないかな。それでも今日は勝ってしまった。ラッキー。

負けたら悲しいし、勝っても素直に喜べないゲームって、楽しくないなぁと気づいてしまった。
まぁ、僕が最適にプレイできない(のに運で勝つ)ことに問題があるんですが……。

ちなみに、本戦の対青黒ハンデスは、キーカードがマナに落ちていることを見逃した上、手札が全部多色カードで1マナ足りなくなることに気づかないという二重のミスを経て敗北したので、むしろ安心しました。よかった、世界は公正だったんだね……。


だから、楽しめるゲームを選ぼう。自らの選択が結果を大きく左右し、限られた資源を巧みに配分する戦略立案が鍵で、目的を達成したときは爽快感があり、かつ適度な運要素も併せ持つ。そんなゲームを。例えば人生とか……。


あと、今回の遠征で友人のデッキケースがひとつ盗難に遭った。中身をメルカるだけで5万ぐらいにはなるらしい。治安の悪さも距離を置きたくなった一因だろう。悲しい気持ちになりたくない。

*1:昔はそうでなかったはずなのに今では当然と諦めてしまっていることもあるのかもしれない

*2:普遍性がある

ハイバイ・ヒッキーソトニデテミターノ 伊丹公演 感想

3月9日金曜日、お昼に伊丹AI・HALLにて。

本公演「ヒッキー・ソトニデテミターノ」は、ハイバイの旗揚げ公演である「ヒッキー・カンクーントルネード」の続編にあたり、話の時系列もその後に位置づけられている。私は鳥取にて前作を見たことがあった。ハイバイの作品を見るのはこれで5度目(AI・HALLで『て』、名古屋で『おとこたち』、鳥取で「カンクーン」、DVDで『ある女』)だった。岩井作品としては『再生』も見たことがある。
ハイバイの作品を見ると、たいてい私はぐったりと消耗する。全体として笑えるところが多いし、個人的で些細な話のように見えつつ存外テンポよくドラマが進行するので退屈は感じないのだが、描かれる人間のありようはとても生っぽく、舞台上でも安易に解決されないため、幕が下りた後*1も、心の中にどろっとしたものがとどまり続け、生活の中に残る。だからいつも見てけだるい、嫌な気持ちになるのだが、どうしてもまた劇場に足を運んでしまう。それが不思議だった。

特に今作は、今までの作品と比べても非常に良く出来ているな、と感動した。
「ソトニデテミターノ」は続編という立ち位置でありながら、前情報なく楽しめる。前作の主人公が今作も中心的役割を果たすが、彼の過去も、回想というかたちで挿入されるし、そのシーンだけで十分成立しているので、前作を見ていれば懐かしく思えるおまけがつく程度だと思う。「ソトニデテミターノ」は、前作のラストシーンで外に出ることが出来た主人公が、引きこもり対応施設のスタッフとして勤労しており、他の引きこもりやその家族らのドラマが展開される、という筋である。

非常に面白いなと思った点は、まず、家庭内における異物としての引きこもり、の視覚的表現だった。家の中に一緒に暮らしているのに他人行儀で、愛情と恐怖の対象としての、引きこもり。子どもだったはずの存在が、いつのまにか化物のような姿に感じられるほど距離を取ってしまった。そして登場する引きこもりたちのコミュニケーション不全は、いずれもコミカルでありながら痛々しかった。論理だったふりをしながら自己防衛的で、自らの不安に対して多弁がちで、容易に他者への攻撃に転化する。或いは完全に自閉的である。とにかく、傷つかない環境に閉鎖していたが故に、傷つくことにとても臆病である。その姿は滑稽でさえあるが、普段の私達と連続的でもあった。

そこに向き合う家族の姿にも、自分の家族に翻って、様々な思いが去来した。「お母さんがそうやって自分の罪を償おうとするから、息子さんも償わせようとし続けてしまうんじゃないでしょうか。そこに終わりはありませんよ」とか、「無条件に愛し続けるなんて無理でしょ」とか。結局死ぬことを選んでしまった彼とか。

また、群像劇的性質と現在と回想を頻繁に往復する構造を持ちながらも、わりあいシームレスに場面が移動することで、テンポが崩れず、観客の集中を切らすことなく複雑な時系列が提示されていた。単純に演出が巧いんだろうなと思う。例えば、岩井秀人の回想(ヒッキー・カンクーントルネードのラストシーン)が、夢だとわかる繋ぎ方、かつそれが飛び込みへの暗示になっていたところ。父親の逃避的妄想から息子の送別会に至るところ、など。モノや舞台空間の扱い方も、演劇的前提を使うのがあまりに上手いから気づかないけど、いちいち解説したら勉強になりそう。

今作を見て、なぜ自分がハイバイの芝居をついつい見に行ってしまうのかという答えが一つ見つかった。ハイバイが舞台上に乗せる問題は、非常に個人的で、かつ普遍的で、さらに深刻なもので、手触りを感じるほど生々しい。状況は個別的であるものの自分の人生の過去・現在・未来のどこかと地続きであるように感じるし、それぞれの人々の葛藤は笑い飛ばせるものではないし、無為とも思えるほど非常に丁寧な口語台詞に裏打ちされたリアリティは創作とは思えない。しかし、ハイバイは、現実の抱える歪さを巧みに描き、かつ明確な解決法も示してはくれないけど、ニヒリズムに陥っていない。そう感じた。描かれるものを消化しきれず、陰惨な気持ちになるものの、それでも絶望だけが残されるわけではない。それでもなにか、しなくちゃいけない、なにか、笑えるような気持ちを持っていこう、持っていけるかもしれない、明日は続くし、という、曖昧なレベルの、でも確実に前向きな作品だと思う。だからまた見に行きたいと思うのだろう。

あとは色々思ったことをメモしておくと、実際に引きこもりの経験を持ち、このような作品を作り、自ら演じている岩井秀人の作品を見たあとで、彼に「外に出てみてよかったですか」と聞く、その暴力性ったら無いな。/ラストシーン、「えっ、おいおい、そっち、行って良いのか?」と思ったのは、私だけか?/「ある女」みた直後だったから平原テツの父親がいいつブチギレるのかと恐恐見ていたが、普通の人だった。/ハイバイの作品で笑いどころが多いと感じるのは、シリアスなシーンが多いことの裏返しでもあるなと思った。舞台上で人々が険悪だったり悲壮だったりしているときに、ある人間がわざとおどけてみたり緊張から失態を犯したりすると、一観客としては舞台上のストレスから逃れようと笑ってしまう。僕は特にそういう観客だ。緊張と緩和というけど、ハイバイは緊張を作るのがすごく上手いなと思う。

以上。

      • -

3/30 追記
散発的に付け足す。今作は「引きこもり」を題材にしているが、あらゆる問題はグラデーションを持つものだと私は思っている。どこからが引きこもりなのか。どこからが「上手くやれている」のか。外に連れ出すのがいいことなのか。自殺はよくないことなのか。
本作の特に優れた点は、視覚的なデフォルメとふんだんな冗談を取り入れながらも、先に述べた複雑性を毀損していないところだと思う。
私達はみな完璧な存在ではない、というといかにも陳腐な一般論として響くが、ハイバイはそれぞれの視点からの正当性を(必死さを)舞台に載せることに成功している。それが今作において特に光っていたように感じられた。
岩井秀人演じるキャラは、話の筋では、過去の不安をなんとか克服した立ち位置に(相対的には)居る。しかしそれが終盤でふっと違う観点から語られる。それが夢に見る「決断のとき」のリフレインであり、葬式での口論である。

「不安と向き合え」と語るものの持つ不安。「正しさ」を語るものの感情的な(人間的な)いらだち。そして不可逆的な結果。

自己矛盾を晒し、解決しようのない問題(時間的不可逆性)に晒されて、それでも人生を続ける人々。
正しく生きるとは、これが正しいと盲信することに過ぎないのかなぁ……。

答えを岩井秀人は提示しないしするべきでもない、したとしても聞くべきではない。と思う。
次は「夫婦」を見に行くのが、楽しみでもあり不安でもある。

*1:幕は大抵無いけれども

カウボーイビバップを見た

COWBOY BEBOP Blu-ray BOX (通常版)

COWBOY BEBOP Blu-ray BOX (通常版)

マイメンのdokataが好きなアニメとして本作を挙げていたため、Amazon primeで検索し、何日かかけて見た。

本作は、宇宙開発が進んだ数百年後?の未来において、賞金首狩りを生業とした主人公たちを巡る物語だ。話数が一桁のあたりでは、スパイクたちが高額賞金首を追いかけ、見事事件を解決するが思わぬすれ違いで賞金は手に入らない……というストーリーの典型を反復していたが、5人(?)目の仲間であるエドが船に乗ってからは、その典型から外れ、一人ひとり中心に据えてキャラクタたちの過去を扱ったり、気分を変えてコメディの雰囲気に振ってみたりと、油断ならない方向へ歩を進めていった。

特に23話から最終話までの悲しげな雰囲気は、登場人物たちに愛着が湧いてしまった分、どうにもやりきれなかった。
何度も見たくなる理由がわかる作品だった。

作品を効果的に彩っているのが音楽だろう。印象的なオープニングは勿論、シーンの随所で挿入される曲は情感を刺激するし、最終話でエンディングの2番がかかったときは興奮した。サントラ買ってしまう。

また時間が出来た時誰かと見直したい。

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3/1 追記

思ったことだが、フィクションに通底する因果応報の摂理はどうにかならないのだろうか。
フェイが最後に言った、「帰る場所」はもう既にそこにあったのに、スパイクやヴィシャスは立ち止まることが出来ず、転がり切るところまで慣性に身を任せてしまう。それが男の美学なのか? 人を殺しまくったら幸せになってはいけないのか? 絶対に許せない相手と心中しなければ行きていけないのか? 適当に折り合いをつけ、今ある幸せを守ることは魂に背くことになるのか?
これはキャラクタの心理を超えて、視聴者の中の倫理観に問題があるように思う。咎を背負えば死なねばならぬ。そう視聴者が思っているのに生き残れば、「ご都合主義」なのか? 

賞金稼ぎという仕事柄、スパイクたちは銃弾が飛び交うようないつ死んでもおかしくない生活を送っていたわけで、主人公補正として生き永らえてきたわけだが、それも実は、暗に死に場所を求めていたと読めば、ほんわかしたコメディも哀しく見えるかもしれない。
長期的な目標もなく賞金稼ぎをし続けるなんてことは、実質緩やかな自殺みたいなものだったのか。

そういう不器用さを肯定すべきではないと思う。

2016年読んだ本まとめ

2016年 120冊

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オール京都「沼楽屋大爆発」のオススメ文

久しぶりに演劇を見て「面白かった!」と思いました。
この記事は、単に感想というよりも、宣伝の意図が強いので、内容に深く踏み込むようなことはせず、まだ見ていない人が、なるべく立誠に足を運びたくなるような文章でありたいと思って書いています。

「沼楽屋大爆発」は、メタシチュエーションコメディです。「死ぬほど滑ってる芝居の楽屋」を舞台に乗せつつ、その滑ってる芝居の内容も「楽屋裏モノ」で、しかもその2つのシーンを両方芝居にする。言ってて意味不明ですね。まず、舞台が2つあります。隣り合う二つの部屋がそれぞれ劇場となり、観客はその二つの部屋を自由に行き来するんです。だから、観客は、「滑ってる芝居」と「その楽屋」両方を並行して見ることになります。ただし、それぞれは別の部屋で、当然肉体は一つなので、二つを同時に見ることは出来ません。芝居中に、立って、別の部屋に行って、また戻って、また移動して……というのを上演時間中繰り返します。

これがまた異次元な面白さでした。「このシーンではこっちの部屋の芝居を見てください」なんて指示は全く無いので、観客は任意のタイミングで、あっちを見に行ったりこっちを見に行ったりしていました。僕は結構バタバタ動いていましたが、隣によく居た笑の内閣の高間さんと思しき人はもっと移動していました。それぞれに楽しみ方があると思いますが、僕はストーリーの空気を読んでバタバタ動くのをおすすめします。

断片的に話を見ることになるので、全体のストーリーは穴ぼこになるんですよね。そこを想像で埋めるのは新感覚の快感です。楽屋でこう発言して出ていって、こう言ってるってことは向こうではこんな話をしたのかな。オッ、隣の部屋から叫び声が。いっちょ見に行ってみるか。あ、丸山交通公園が部屋を移った。ついて行こう……でも、こっちも話が立て込んできたな。どっちに行こう?あ、戻ってきた。

みたいな、今までにない観劇体験です。さらに言えば、この「二つの舞台を置き、そこを観客が行き来する」というアイデアは、ストーリーと演出によって作品の中で必然性を獲得しています。「発想は面白いけど、芝居に落とし込めてないな~」というレベルではないです。

僕は丸山交通公園さんと直接の面識はないですし、今回の芝居も初日無料に釣られて行った口ですが、思わず1000円払いました。2500円という値段は学生にとっては高価です。同じ会場で『この世界の片隅に』が1.6回ぐらい見れる値段です。ただ、この芝居が空席だらけというのはあまりに切ないので(あまり混雑しても移動できないので困るが)、広告に協力しています。まぁ割安で見た対価なんですが。
値段は交渉で安くなるらしいので、払えるだけで予約して、見終わってから(払いたければ)払えばいいのではないでしょうか。或いは、定額で払う人で席が埋まるのが一番いいのかもしれませんが。

↓詳細↓
ホーム - 丸山交通公園

期間 2017/01/20 (金) ~ 2017/01/23 (月)
劇場 元・立誠小学校
出演 丸山交通公園、石田達拡、小林欣也、西村花織(劇団しようよ)、ピンク地底人2号(ピンク地底人)、山下ダニエル弘之、横山清正(気持ちのいいチョップ)
脚本 丸山交通公園
演出 丸山交通公園
料金(1枚あたり)

0円 ~ 2,500円
【発売日】2016/12/17
・無料公演あり
・チケット代応相談


タイムテーブル
2017年
1月20日(金)19:00※無料
1月21日(土)14:00/19:00
1月22日(日)14:00/19:00
1月23日(月)13:00/16:00


丸山交通公園さんの乾いたブラックさと湿った切実さが共生する芝居を、定期的に見れたらいいなと思います。

劇場版聲の形を2回見てスタッフトークを聞いた

スタッフトークの感想の後、映画の感想をまとめます。敬称略。

スタッフトーク(2016/09/27 MOVIX京都)

山田尚子監督とキャラクターデザインの西屋太志が登壇して、制作の裏側についての質問に答えていた。山田監督がデへへへ笑ってたことが印象に残っている。あまり特別な発言はなかったように思うけど、

・劇場版は映画として、原作とは違う作品として作ったこと
・キャラクターデザインにおいては丸みを意識したこと
・長く(永劫に)愛される作品を目指して作ったこと
・シリーズを経ずに映画を作ったのが初めてだったので、チームワークを強く意識したこと
・硝子は「肉感のあるキャラクタ」と大今良時から聞いていたから、やや寸胴気味に、対して植野はすらっと伸びていくように描いた、と言っていた
大今良時の絵柄に対しての愛着もある中で、どう映画で動かせる絵にするか、という部分は、映画としての「聲の形」の雰囲気と合わせてかなり監督と話し合った
・ポスターの空の青、空に交じる黄色の粒、挿す陰さえも青が交じる部分などは、作品の中で徹底されている部分らしい(特番でも空については触れられていたなぁ)
・長束はスタッフ内で書いてて人気だった
・マリアの髪型はカニなんですよ!(山田監督)

とかは覚えてるかな。『聲の形』についてとても真摯に向き合っておられるなぁと思いました。

映画の感想

僕は原作の漫画がとても好きで、映画二回目は公式ファンブックと原作を読んでから向かいました。そういう前提の元の感想です。

(是非はともかく)映画と原作は別物

原作を読んでもわかるし、公式ファンブックを読むと尚の事わかるんですが、原作は漫画という表現方法を最大限活かすべく表現方法とストーリー展開が選択されています。だからそれをそのまま映像化しても仕方ないし、映画という表現媒体に合わせた内容に変えるべきだと考えられているんだな、と見て思いました。
例えば、原作では基本的に物語は将也目線で進むため、「将也が見る世界」を描いていました。しかし映画は「登場人物たちをどう切り取るか」という視点が強く働いていたと思います。それは例えば、言葉を発している人物の表情をあえて画面から隠す技法(植野が西宮と初めて再会したシーンなどの、植野をめぐる場面で顕著)や、同じ空間に居る2人をあえて別々に撮る技法(鯉に餌をあげるときとか)とか、客観的なところにカメラがあることを見ていて強く意識しました。原作では、常に将也に視点がある分、昏睡状態に陥ったとき各キャラクタに初めて焦点が当てられ、それまでの話の筋に多視点が追加されます。しかし映画ではそこはかなり省略され、将也と硝子を中心とする話に収まっていました。これはある種必然だなと思いました。また、カメラ視点が自由な分、原作では省略されたという*1硝子の右耳の聴力がひどく低下したシーンが追加されていました。

石田将也の性格

また、映画と原作の将也は、その性格において質的に違っていると感じました。原作の将也は、いじめを受けて孤立して以降、クラスメイトを始めとする他人を見下すことで自分を保っていたと思います。他人の顔に張り付いた×マークは言わば将也が他者に貼った「レッテル」の象徴でした。しかし映画においてはその攻撃性は削られ、将也はかなり優しい、弱さを抱えた存在として描かれていたように思いました。例えば、教室で川井やクラスメイトに将也がアテレコする場面でも、原作では彼らに悪態をつきますが、映画では頭を抱えるだけです。その後、クラスメイトが将也に「飛行船が飛んでいる」と教えるのに自分の世界に没入していて気がつかない、というシーンが挿入されるのも、劇場版の将也の内向性を宣言するためなのかなと感じました。こうした差異は、長束と並んで弁当を食べているシーンでも見られました。原作では「同じだと思われたくない」と言って席を立ちますが、映画では気にせず硝子のことに思いを馳せます。こうした性格の差異は、デザイン上の「丸み」という部分にも表れているのかな、と思いました。

恋愛濃度

さらに、映画の将也と硝子の関係は、恋愛濃度がかなり高まっていると思います。象徴的なのは、将也が硝子を引き上げ、代わりにベランダから落下するシーンで、「そういえば、西宮が俺のことどう思ってるのか 聞けばよかった」というモノローグだけが残ったことです。原作ではこの部分は、将也の懺悔と自罰の中、最後に語られたものでした。過去への自罰感情とどう向き合うか、という筋書きの中で、彼らの恋愛感情は付随的なものに思えます。これは、原作の将也の中には硝子に対する贖罪の気持ちと同時に、他者と向き合っていないことへの劣等感も強くこびりついているからだと思います。映画版ではそれは、他者への恐怖というかたちを取っていたように思えます。

映画の評価

僕は映画について、将也が昏睡状態に陥り、硝子が友達行脚を行い、火曜日の瀬戸際に橋の上で慟哭するシーンまでは非常に感嘆していたのですが(早見沙織はすごいなぁ)、橋の上での二人の会話があまりに恋愛めいていたことで、不安な気持ちになってしまいました。将也(原作)は、泣く硝子を抱きしめることをしませんでした。「生きるのを手伝って欲しい」とは、いじめられても目の前で友人が喧嘩別れしても祖母の葬式に参列しても涙を流さない硝子に対しての切実なメッセージであり、同様に命を投げ出しかけた将也の自らへの宣言だったはずです。ただ、映画では、「もっとみんなと一緒にいたい 遊んだり笑ったりしたい」という部分が省略されていたような気がして、プロポーズみたいに見えてしまって…ウウウ頭がという気分になりました。硝子に手話を作らせ手を握って照れたことで、将也の自意識がシーンに表れてしまいました。ここは、「言うべきだったのに言えなかったこと」を伝える場面であり、結絃が出来なかったことを代行する場面でもあります。作中で積み重ねられたディスコミュニケーションを一気に乗り越えるシーンです。しかし、個人的にはこのシーンが、直前の早見沙織の叫びに負けていたように感じてしまいました。もうちょっと時間を割いてもよかったのでは、と思う反面、「相手のことを勝手に解釈していた」という反省は、原作の各キャラクタの内面に踏み込む描写があるからこそ成立するような気もするし、映画としてどうあるべきだったかは…。よくわかりません。この部分についてはあまり言語化出来ていません。

ところであの場面で将也が作ったのはやはり「ともだち」でしょうか? 硝子は「約束」と返していたようですが……。

ラストシーン

そして、将也が涙を流して終わります…。この終わらせ方についても、僕は手放しで褒められません……。それはなんとなく2つの理由が今思いつくのですが、1つ目は「涙を流しすぎなこと」と、2つ目は「このシーンで幕切れなこと」です。このシーンは、たとえ他者によって傷つけられるとしても他人という存在を受け入れて生きていくことを将也が選択するシーンだと思います。ここで今まで内面化していた他人への恐怖を受容できたことは、確かに一つの劇的な瞬間ですが、ちょっと演出が劇的すぎませんか? 強烈な音楽効果と大粒の止めどない涙によってこのシーンは、将也の内面的変化に自己救済の色を強めすぎているように思えて……涙を流すにしても、笑っていてほしかったなと思います。これは、a spot of lightの中に見える2つの影の意味がよくわからないことに起因するかもしれません……。あと、2つ目の理由については、将也の自己救済で終わると、将也が気持ちよくなるためにこの物語があるように思えるので、せめてスタッフロール中でもなんでも良いので、その後の映像が見たかった。ここで言うその後とは、成人式でなくても、涙を流した将也を囲むみんなとか、その程度でよかったので、自己受容という変化ではなく、自己受容をして生きていくという継続的なものが見たかった。

ただ、原作から登場人物個々人への踏み込みを削って、将也と硝子の物語に的を絞って恋愛濃度を高めた(aikoの歌も『恋をしたのは』だ)のだから、この終わり方も筋が通っていると言えるのかもしれない……。

その他映画について

・声優はみな良かった 僕は元々特に結絃が好きだったのだが、悠木碧の演技はサイコー 
・構成 喧嘩別れのシーンと祖母の葬式を時系列的に入れ替えていて、確かに映画の盛り上がりの動線としてはそっちの方が良いんだろうなと思いつつも、祖母が死んで間を置かずに硝子が身を投げているようにも見えて難しいなと思った
・映画ならではの動きを活かした演出(エスカレータですれ違うとかジェットコースター乗るとか)すき
・雨の中家出した結絃に将也が傘を差し出す構図と、終盤植野に硝子が傘を差し出す構図を重ねてて、短い時間で印象を強めるのが上手いなと思った
・音楽よかった(特に将也がカメラを取りに西宮家に行ってからのとこ。葬式のシーン音割れしてたんだけどMOVIXの問題?)*2
・二時間ちょいで『聲の形』が味わえるのは凄まじい(長い作品は見ていて疲れるし、時間をかけることで失われる体験の価値もあると思っています。)
・スピード感があるので、火曜日、手話(見覚えのある動作がすぐ出てくる)、水の波紋など重要な小道具がわかりやすい
ポニテ、あぁ^^~~~~(みんなかわいい)
・自罰感情から怒れない将也を見て、結絃は硝子のことを思い出したんだろうなとわかった


・「あなたがどれだけあがこうと 幸せだったはずの硝子の小学生時代は戻ってこないから」「はい!」があってほしかった
・西宮母が植野をビンタしまくるところ、作品屈指のギャグシーンだと思っているので省略されて残念だった
・真柴が装置だったので悲しかった(友だちになれたと思っていたのに……)(でもヘラヘラはしてる)

映画を見た人は原作を読むべきか?

何度も言ってきましたが映画と原作は別物でした。僕は映画も(ラストを受け入れられていませんが)よく出来た作品だと心から思っています。動的な演出や音楽、声優の演技、象徴の使い方も含めて、漫画とは異質の面白さが詰まっていると思います。
ただ、原作は含まれている情報量が桁違いで、ストーリーの深さが比べ物にならないので、映画を見てなにか思うところがあった方なら、ぜひ原作を読んでみるべきだと思います。というか、原作読まずに映画見た人、あのスピードについてこれてるんですかね?

漫画の『聲の形』の面白さは、キャラクターたちの明確な存在感にあると思います。登場する人々が全く違う価値観と全く違う背景を持っているのに、それぞれの思考回路が(共感できなくとも)理解できるというのは、ある種異常なことで、それを描ききれていることは大今良時の突出した能力の一つだと思います。聴覚障害やイジメという要素は独り歩きしやすいですが、『聲の形』はキャッチーな要素を越えて普遍的な問題に踏み込んだ作品だと、思っています。

公式ファンブックについて

公式ファンブックはページの2/3が読み切り(2パターン収録)で800円(+税)という阿漕な商売だと思いましたが、作中の演出やセリフの意図について大今良時が細かく解説してくれているので、これを読んで原作を読み直すと、作者の漫画構成力に屈服してしまうと思います(僕はしました)。大今良時は頭を使って理論的に作品を描くタイプの漫画家で、しかも、読者がどう読むかということにとても自覚的な方なんだなということがよくわかります。「漫画に情報を詰め込む上で、こんな工夫もあったのか」という目線でも勉強になる一冊です。原作ファンなら必ず買うべき一冊だと思いますし、フィクションを作ることに携わったことがある方なら違う意味でも楽しめると思います。
映画とは関係ないので、原作を一度読んでから読みましょう。

余談


公式設定資料集、初日の正午には売り切れてたので異常だと思った。
映画をキッカケに原作に手を出す人が増えると嬉しいなぁと思う。大今良時は2016年末に週刊少年マガジンで新連載予定らしいぞ!

*1:公式ファンブックp138参照

*2:追記。葬式のシーンの音割れは意図的なものであったらしい。ともすればメタ的な不具合と思えることを演出に加えるのは勇気のあることだなと思いました。友人は『音響が心情表現の演出に深く関わっているのは、ラストシーンで将也が耳をふさいでいた手を外すことにつながっているのでは』と言っていました。へ~。でも音割れが誰のどういう心情を暗喩しているのかはよくわからないからあんまり評価できないな……。

6月に読んだ本

2016年6月の読書メーター
読んだ本の数:22冊
読んだページ数:3732ページ
ナイス数:34ナイス

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