ああああ

漫画・本・映画・演劇・その他コンテンツの感想を書く場としてがメイン。日本語の練習を兼ねています。

平田オリザの本を二冊読んだ。

コミュニケーション力を引き出す (PHP新書)

コミュニケーション力を引き出す (PHP新書)

を読んだ。別々に感想を書きたいところだが、内容が重複していることと、記憶が混濁していることから、両方にまたがって適当に書く。

前者「コミュニケーション力を引き出す 演劇ワークショップのすすめ」は、例えば企業の管理職みたいに、組織のコミュニケーションを潤滑にしたい人向けに書かれたお手軽新書と言った風。劇団衛星の主宰と寄稿しあって対談した一冊。

ビジネスマンを対象に実際に行った演劇ワークショップが記録されてて面白い。

【印象に残ったこと】
・社員を動かす動機付けは、会社のため+自身のため+社会のため という三面からの利点が必要。
・リアルさを実感させるためのロールプレイ→問題が発現する以前の段階での「気付き」が必要。ありきたりな答えに落ち着いてしまわないためのフィクショナルな部分。異常な価値観や問題の所在の曖昧さ。←「応用不可」の、状況。具体的な「こういうときはこうする」という杓子定規な学びよりも、もっと根源的な体験。
・恥ずかしいことを一緒にやることで生まれる一体感。
・ボールを投げるシアターゲーム。一つ目は名前を読んで、返事を聞いて、ボールを投げる。2つ目以降は、一個目を追いかけていく。互いのことを受け入れること。
・日々に忙殺されるなかで、互いのことを見つめ合うことを知らず知らずのうちに放棄し、非常に教義な文脈で互いを認識することに慣れてしまう。演劇を共同して作るということは、それぞれが持っている文法を白日のもとに晒し、その齟齬を修正していく過程である。


後者「わかりあえないことから コミュニケーション力とはなにか」は、近年しばしば取り沙汰される「コミュニケーション力」により焦点を当てた一冊。
「コミュニケーション力」が問題とされるようになった時代背景と、現在の教育・福祉・社会構造における課題を明らかにし、具体的な対策を語る。
具体的な教育方法は述べられていないが、考える材料を多く与えてくれて面白く読める。
具体的なワークショップの方法論に興味のある人は

とか別の本を参照すればいいと思う。

【印象に残ったこと】
・「コミュニケーション」という点で、日本社会全体は、「異文化理解」と「同調圧力」のダブルバインドに陥っている。これは、「明確な自己主張と、他者との折衝能力」と、「上役の意見を察し、輪を乱さないこと」の矛盾である。
少子化・個人化が進行するなかで、生活のなかで「他者」は減少した。甘やかしてくれる親・祖父母は自己主張せずともすべてを与えてくれるし、少ないクラスメイトは既に互いを熟知している。*1表現は他者を必要とするが、教室に他者は居ない。このように「わかりあう・察しあう」優しいコミュニケーションで幼小中高と育ってきて、いざ就職だという段になって「自己表現だ」「異文化理解だ」と投げ出される厳しい状況が存在する。
・根幹にあるべき「自分のことを伝えたい」と切実に希求する機会が存在しない。←体験教育で提供
・かつては「コミュ障」*2でも、技術職で十分食っていけた。→「顕在化」が起こった
・求められている「コミュニケーション能力」って、実は「スキル」や「マナー」と同じレベルの教育的事柄なのでは?*3←個々人の人格や資質に欠陥を指摘するほどの大した問題ではない。
・社会的な変化によって生じた現象を、個別の人間の責任に帰するのはお門違い。
・教師が生徒に教えすぎている現状。生徒が自らアイデアを掴もうとしている寸前に結論を提示してしまう。「ヒント出そうか?」と示唆するのも、あくまで「教師が用意した・やりたいこと」への道標でしか無い。そのほうが「教えた達成感」が得られるから?
・話し合っても結論が出ないこともあるし、そもそもそんな時間を費やすに値しない、ジャンケンで決めてしまえばいい問題もある。議論の題材を取捨選択する能力が子どもには必要。*4
・単に「台詞を喋る」ことだけでなく沈黙や不在自体が表現となり得るのだと気づく瞬間がある。
・「コミュニケーション教育」は「国語」か?→「国語」って科目もう要らなくない?「表現」と「ことば」に分けようよ。「表現」ではスピーチやダンス、演劇音楽図工など、「ことば」では文法・発音・発声を教え、外国語も混ぜることで自国語の相対化も図る。読み書き統一識字率向上という明治以降の近代における役割を、「国語」は既に終えているよ。*5
・俳優に負荷をかける=ある台詞を口にするとき、右手でコップを掴み左手で新聞を引き寄せるといった複雑な動作を強い、またそのとき視界に写っていることや聞こえる音を記憶させる。=意識を分散させ台詞の力を抜く。+「無駄な動き」(自然な人間らしさ)が、持続する。
・抑揚で台詞を強調する文化は日本にはほとんど無い。むしろ重要な語句の倒置、反復がメイン。→「芝居がかった」とされるアクセントの強いセリフ回しは、西洋の近代演劇を表層的に輸入してしまったことが原因。
・「会話」と「対話」の区別。「会話」は近く親しい文化を持つ人々のくだけたお喋り。「対話」は、親しくない人間を含む、異質の価値観や情報の交換。或いは、その摺り合わせ。
・「わかりあう文化」=「会話」の文化
・「会話」からは情報は得られない。「対話」するからこそ物語が動き、観客の情報が与えられる。
・日本語には、対等な関係で褒める語彙が極めて少ない。例えば英語だと、wonderful, terrific, fabulous, greatとか枚挙に暇がないが、日本語では、敬語になるか、見下すかになってしまう。*6
・日本語が「対話」において貧しい言語であるために起こっている問題例。女性が男性に命令する言葉遣い。女性上司-男部下。看護師-患者。赤ちゃん言葉になってしまう、或いは、非常に厳しい口調に聞こえてしまう。「これ、コピー取っとけ」「これ、コピー取っていて頂戴」(男女で違和感)→問題の解決のためには、男性上司も部下に対して丁寧な言葉で、つまり、「対話用の言葉」を用いるべきではないか。「これ、コピー取っといてください」←言語権力者(壮年男性)こそが態度を改めるべき。
・シマ・ムラ社会と多民族社会の文化の違い。どちらが良いということではなく、日本でも後者の様式が求められる状況になってきたということ。
・社会的弱者は往々にして言語的弱者(自分の状況・感情をうまく伝えられない)でもある。論理的に話す能力よりも、論理的に話せない人の感情を汲み取る能力のほうが重要ではないか。
・「演じる」=「社会的に要請されている役割をこなす」ことこそ人間が人間である所以なのだから、もっと肯定的に、演じることを楽しもう。

*1:筆者は地方の廃校寸前の小中学校を例示しているが、僕は一応田舎出身だが「学校にもはや他者は居ない」と感じたことはないし、あくまで一部の例だと思う。

*2:筆者は「口べた」と言ってる

*3:ナイフやフォークの使い方のような

*4:「戦略とは、限られたリソースをどこに分配するか決めることである」って瀧本哲史先生の授業で聞いたんだけど、まぁそういうことだと思う。人生は有限。

*5:日本は発音を教えない数少ない国、という指摘があった。確かに習わない。「するめです」のすの発音がそれぞれ違うって知ってた?

ダーリンは外国人(2)

ダーリンは外国人(2)

*6:万能な形容詞として「かわいい」が挙げられていた。あとはなんだろう。「すごい」「かっこいい」…。「ナイスショット」「どんまい」「オッケ-」など外来語に頼らざるを得ない現状らしい。まぁ確かに「お上手」「流石」は謙ってるし「なかなかだな」「よくやった」は上から目線だ。

「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」と「ブラックホークダウン」を観た。

本当は「ダークナイト・ライジング」も観たのだけど、その感想は以下のツイートで完結している。

キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」は、前編英語音声+英語字幕で見たので理解しきってない部分があるかもしれない。
口先一つで周囲を騙し延べ6M$分の小切手を濫造した男の話。
主人公を追うFBIが良い味出してて、初対面でなんとか逃げ延びるシーン、電話をかける相手が居ない寂しい人間だと看破するシーン、会話の節々から徐々に追い詰めていくシーンがよかった。
また、嘘をつき続けてきた主人公が妻のことを信じ切れずに迎えに行けない場面もよかった。
主人公と対照的に警官が誠実で、フランスで主人公を説き伏せるシーンで、騙したんかーいと思わせてやっぱり真実を語っていたとわかる場面は上手いなと思った。観客の予想を的確に操作している。

ただ少し長い。逮捕されてからも20分ほど続くのでうんざりした。しかし、本作は自分の手の届かないところで家族が変化してしまったことを受け入れられない幼稚さを持った主人公が、家での末なんとか自立する話なので、結末まで描くことは必要だったとは思う。


ブラックホークダウン」は、台詞も早いし読んでもわからないので日本語字幕で見た。
ソマリアの紛争にアメリカ軍が介入して失敗する映画。
単純だと予想された作戦が、ふとした事故をキッカケに段々陣形が崩れていき泥沼化。多くの犠牲を出しつつからがら撤退する…という145分の映画。つらい。
まず見ていて辛いのは、軍隊の行動原理が僕には全くわからないこと。たぶん僕の想像力が貧困なのだと思う。
キリスト教では最後の審判後に肉体が復活することになっているからか知らないが、アメリカ軍はとにかく兵士の死体を極力持って帰ろうとする。*1全員で帰れ。Leave No One Behind, even if they are dead.である。そもそも作戦が崩れ始めたのは、たったひとりの負傷者を本部基地に戻すため3小隊を帰還させたからだ。そこから援護射撃が減り、ヘリが一機RPGに撃たれて墜落。今度はそのヘリを助けに行くために人員を割く。しかし墜落地点は結構遠い。だから兵士が更に撃たれる。そういう悪循環。
戦場で怪我した人間なんてとりあえず放っておけよと思った。実際、本部への輸送中に一人撃たれて死んでいる。合理的じゃなくない?

第二に辛いことは、戦闘の目的が完全に見失われていたこと。これは映画としては意図的なことなんだろうけど、凄惨な殺し合いの先に何があるのか全く見えない。暴徒の中に置き去りにされ、弾のある限り民兵を撃ち続ける。それがいったい何になるんだ。弾倉は助けが来るまで持ちそうになく、敵の数は圧倒的。それでも殺す必要があるのか? 言葉も通じない民兵にだって家族がいるしこれまでの人生もこれからの未来もあるってのに。
ソマリアの紛争を止めるためにアメリカ兵は命を懸けているのだけど、それは個々人の信念とは無関係のところで動いている政治的要因であって、彼らが命をかけている現状に疑問を抱くのは当然だと思った。兵士は「仲間のために戦っているんだ」「英雄になりに行くわけではない、結果的にそうなる」と言うけども。まぁこの「仲間」が、アメリカ兵だけでなく、自由と平等を求めるソマリア国民も含んでいるのかもしれないと思った。そう考えると、僕なんかよりもずっと実践的な平和主義者だ。

この疑問が生じたのは、多分、命からがら走って帰ってきたアメリカ兵を、ソマリア民間人が、笑いながら迎えるシーンが有るのだけど、そこがイマイチ歓待しているように見えなくて、バカにしてるのかと思ってしまったからだと思う。

アメリカ兵は、僕の目には大きな流れのなかで命を捨てさせられる哀れな捨て駒にしか見えなかったし、カッコイイとか美しいとか言った感情は呼び起こされなかった。
本当にソマリアの平穏に一役果たせたのか? その結果、殺した民兵より多くの民衆を、救うことが出来たのか?

そこが見えない以上、なんとも思えない。相手を殺す以上、戦争について肯定的な評価はできない。

*1:この話を友人にしたら、「軍隊って大抵そうじゃないか?」と言われた。真偽の程はわからない。

「バケモノの子」観た

友人に誘われて「バケモノの子」を観たので感想を書く。

「親を失った主人公が立ち直る」という分かりやすい縦筋があったので、個人的にはけっこう楽しめた。
また、その成長が血縁以外の要素によって支えられていたことが興味深かった。
主人公の悩みは、熊鉄、豚、猿、楓、バケモノ世界の住民という、「親」でも「学校」でもない、「地域共同体」的存在によって解決されていく。それは現代日本で消えつつある、第三者の大人たちだ。実際、後半登場する蓮の父親は、蓮を迫害することはないが、窮状から救い出すこともしない。彼は彼なりに蓮を探していたらしいし、別にそれを非難してるわけではない。ただ、主人公にとって逃げ出す場所があった、ということが重要なのだ。
親を失った蓮も、熊鉄に父親の影を重ねることはない。熊鉄が父親代わりの気分になっている、という言及はあるが、擬似家族としての絆を強調しているわけではなく、不完全な存在である「親」もまた成長の途上であるという指摘だと思った。

「家族」ということさらに枠組みを強調せず、しかしこの映画は明らかに家族向け(子供向け?)である。
その点で有意義だと思った。*1

また、作中の悪役は、倫理観の欠如した不良などではなく、誰もが抱える「心の闇」であり、それは「自己抑圧によって知らぬ間に強化されている」というあたりも、現代的だなぁと思った。「自分がバケモノの世界では異質の「人間」であることを受け入れられないがゆえに、人間である主人公を憎む」という、投影の模範例みたいなキャラだったし。
対決する際にも、「自分も彼のように闇に堕ちていたかもしれない」、「彼の悩みは自分のものでもある」と、解決方法に「共感」を採用している。他人の気持ちを慮る想像力は必要やからな。

「誰もがそこそこに抱えている暗い部分を、劇的に解決すること無く、抱えたままなんとか生きていく」という終わりも、現実的な落ち着け方だと思う。蓮が闇堕ちしかけたとき、白い謎の生き物や楓のお守りのお陰で踏みとどまったシーンでは、ヤサシイワタシの、「もうダメってなってる時間を やりすごせるかどうかって 運とかだと思うの わたしがやらないと思う理由を 死んだ人が持ってなかったわけじゃないと思う ヒロくんもやりすごしてよ」という台詞を思い出した。主人公が複数のブレーキを持っていたことは誠に幸運なことだ。

蓮が定義した「強さ」とは、誰よりも強くなるということではなく、一人で生きていけることだった。蓮は「強くなったよ」と言ったが、それは、多くの人間に支えられているという状態も含んでいた。知人や肉親など直接的にも、奨学金など社会的にも。


「とりたてて不満もないけど、わざわざ映画館に観に行く程でもなかった」という総括で。

【その他思ったこと】
生卵を不味そうに食うシーンがよかった。あれで実は美味しかったと描かれると不快だった」「蓮はボンボンやからもともと高級な卵食べてたんやろな」
・「鯨」の漢字が読めないのに「白鯨」を手にとって読む蓮、ナニモンだよ
・なお、イチロウヒコは漢字が読める模様
・能力で鯨を出現させるぐらいなら、コンプレックスだった長い鼻や牙をフィーチャーすべきだったのでは? 監督が鯨好きなのは伝わってきたよ
・異世界に迷いこむシーン千と千尋のオマージュっぽい
・渋谷の雑多なネオンとか地下鉄とかCGで見れたのはよかった
・ほんま閉館までわざわざ待機してイジメる高校生陰湿
・説明台詞が節々で気になった。「来た道がなくなった!」とか、「言ったことは曲げないような目をしている」とか、見れば分かる情報をわざわざ言葉で説明してしまっているあたりが、子供向けだなと感じる一因だった。「無い!無い!」というように、特にひとりごとでは明らかな目的語は省略されると思う。
・「バケモノ」ってポリティカリーにコレクトじゃないような印象を受けた。


ヤサシイワタシ(1) (アフタヌーンKC)

ヤサシイワタシ(1) (アフタヌーンKC)

*1:ただ、「バケモノの子」というタイトルは…まぁ、「弟子」という意味なのかもね。英訳はThe Boy and The Beastだし。或いは「おおかみこどもの雨と雪」との繋がりを想起させる、商業的必要性から?

esを観た(NINEを観るのを諦めた)

esを観た。
有名なスタンフォード監獄実験を基にした映画(細部までが事実に沿って作られているわけではなく、フィクショナルに盛り上げどころは作ってある)。

この実験は、20人程度の被験者を、ランダムに8:12ぐらいで看守:囚人の役割に分けて、12日間生活させる。すると次第に看守は暴力的になっていき、囚人は従順になる。このとき元々持っていた個々人の性格には関係なく、一様にこの傾向が見られる(没個人化)。
この原因として、看守は「上から与えられたルールに従っているだけ」という、自分自身の倫理観とは違ったルールに従う「倫理的阻害」と、「自分たちは秩序を守っているんだ」という、「誤った正義感」の存在が大きいように感じられた。

14日間の精神実験なのだけど、開始から36時間で(ルール上は禁止されていたはずの)暴力が始まり、これが黙認されたことに味をしめた看守側は増長し、差別的発言やルールを逸脱した暴力を繰り返し、権力を乱用し始める。ただこれは、記者として潜り込んだ主人公が、懲りもせず囚人側を扇動したことも原因の一つだと思う。

というか、実験ではルーチンとして何を行う予定だったのかが不明確で、実験中は小競り合い(中盤から既に暴行の域に達しているが)ばかりしている印象。4日や5日の段階で無政府状態だったので、14日経っていれば多分全員死んでただろう。

観て数日経ってから思い返すと、報奨金のたかだか4000マルク(25万円)のために、集団で個人を侮辱したり、殺されても仕方のないような集団暴行を行うことが、果たして看守にとって正当化されていたのかと思うと甚だ疑問だ。彼らは狭い世界で手に入れた権力がいずれ終りを迎えるということを全く頭においていないようだったし、その世界が壊れてしまうことを何よりも恐れているように見えた。


最終的に人死にが出て、被験者同士が包丁で殺し合うような段になっても、看守は「お前が秩序を乱すからだ」と言い放つ。きがくるっとる。


実験それ自体のインパクトがあまりに大きいので、画面にはぐいぐい引きこまれてしまうが、陰鬱な実験シーンの合間に箸休めとして美女の自慰シーンが挟まれたり、実験主催者があまりに無能だったり、看守はちょっと残虐になりすぎちゃうかと思えたり、映画として素晴らしいかどうかは疑問。


「NINE」を途中で観るのを止めた。
「NINE」は、初期作は大ヒットを連発したものの、ここ最近はスランプの映画監督が、イタリアを舞台に、制作進行やプロデューサーから逃げまわり、愛人と寝て、妻を口説き、映画を夢想するも一文も脚本が書けず、女と踊り、仕事を思い頭を抱え…という筋書き。
たぶん映画の見所はイタリアそのもの。イタリアの風景や建築、めくるめく登場する美女たちとカッコイイオヤジ。
主人公が想像する映画シーンとして現れるセットは荘厳で美麗だし、そこで踊り狂う女性たちはみな美しいのだけど、英語字幕+英語セリフで見てたら、ミュージカルはイタリア語だし、話は全く進まないしで、見てて疲れた。

半分ぐらい見て止めた。

バタフライ・エフェクトを観た

TSUTAYAが旧作100円レンタルの恒久化を始めたので映画を借りた。
バタフライ・エフェクト」「NINE」「es」「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ
一週間で4本見れるだろうか。時間の余裕はあまりあるが。

バタフライ・エフェクトは、前情報として、運命を変えようとする男が、しかし些細な変化によって繰り返し悲劇に収束してしまう、みたいな筋だと知っていた。

主人公の容貌がカッコイイ。顔が秀麗だし肉体も当然ガッチリしてる。しかしそれでも刑務所のマフィアたちに比べると小枝のような腕で、いったいアメリカの不良は何をして育つんだと思った。

アメリカの大学はイジメなんかあるのか……。と思ったあたりで、主人公が大学生なら年下やんけと気付き金・女・アカデミックコンプレックスが全て刺激された。

主人公がケイリーの墓に「I'LL COME BACK FOR YOU」の紙を落とすシーン、自分で殺しといてなに感傷に浸ってんねんと感じた。

30分ドラマや短編漫画なら病院のシーンで終わらせてもよかったのかもしれないが、ホームビデオを通じてハッピーエンドで終わらせるところに、礼儀を感じた。完全に精神病院エンドだと思ってた。

音楽は少しあけすけであった。
英語が十分に理解できれば、主人公が回想で豹変する際もっと妙が味わえるのかもしれない。

印象に残った台詞は「トースター入れろよ」

もっとコメディ寄りだと思っていたので少年がカメラの前で脱がされた時はギョッとした。

「岩井秀人×快快「再生」」を観た

岩井秀人×快快「再生」 を観た。
この感想は、快快「再生」を観たことのない人にとっては、実感が沸かないばかりか、これからの人生で起こるかもしれない「再生」感激体験を毀損するだけで何の益もない害悪たりうるので、読まないことを勧める。
次回再演された際、適度に期待して観に行くといい。





異質な面白さがあった。普段消費する「物語」とは異次元の面白さだ。
「全く同じ狂乱を3度繰り返す」という、コロンブスの卵的舞台の構造は、それだけ聞けば耐屈に感じられるが、実際に客席に座って体感すると、得も言えぬ快感があった。

まず一度目。高く組み上げられた本棚は壁にそって斜め奥に伸びていき、樹木と、その足には10本ほどの色とりどりのペットボトル飲料、舞台左手手前にはソファ、中央には和風庭園めいた雅な岩、舞台奥には、神社めいた編まれ方をした綱が、しだれ下がり並んでいた。
そこで行われるのは、音楽に合わせた、踊り、とも言えぬ、馬鹿騒ぎだった。暗闇に民族的音楽が流れると、役者はゆっくりと起き上がり、そのリズムに乗って踊る踊る。てんでバラバラ舞台上を駆けたかと思えば石を囲んで回り出しまた散開して揺れ動く。
時折声が漏れるが意味のある言葉ではなく喉から流れる音でしかない。

作品に対して前情報のない観客は、眼前で行われる芝居が何なのかわからず、呆然と見つめるしかない。
1曲目が終わると、僕はこれからストーリーが始まることを期待した。が、2曲めが始まると、その考えを捨てた。きっとこれが続くのだ……。果たして僕はこれが何を象徴しているのだろうか、と必死に考えながら観た。払った3000円を取り戻そうと。

しかし、100分間これが続くのか…と思ったのもつかの間、踊りは常に激しくかつ単調でないため見ていて飽きないし、それぞれの曲中に盛り上がりもあるし、「次はどんな曲が?」と楽しみになっていたあたりで、第一幕は終わった。
民族音楽テクノの次はメタルロック、かと思えば聞き覚えのあるクラシックが流れ…とまぁ全部は覚えてないけど、刺激的なセットリストだった。
MY TIME-bo en で「おやすみ おやすみ」と歌われ、派手な舞台効果があり、そして眠るように曲が終わる、のかと思えば、キャスト紹介が始まるのかと思うほど雰囲気がガラッと変わったLASER-banvox が流れる。そして再び激しい踊りを強いられる役者。エネルギーを残さず放出しきって、それぞれの役者は始まりと同じ位置に、着く。暗転。

ひと通りの山場があり、始まりと同じ立ち位置に全員が戻った時点で、「あぁ、再生とはこれを3回繰り返すことなのか」と、恐らく観客は理解したことだろう。「再生」なら2回では物足りないし、4回するには尺が足りないように感じられた。そして再びJuno Reactorが流れた時点で、予感は確信になる。
Juno Reactor - Conga Fury [HQ] - YouTube

そうは言っても常識が邪魔をして、「いやいや、同じことを繰り返したって一回見てるんだから、なんかストーリーが盛り込まれたり、重大な変化が起こったりしてるんちゃうん?」と思って気を抜かずに見る。しかし、2曲目の半ば辺りで、僕の集中力は切れた。執拗に再生されている。一周目において、徹底されたダンスの綻びのように見えた、躓き、滑落、水分補給が、全く同じタイミングで上演されている。彼らはあと2回、全く同じものを再生する気だ。そう分かったら笑ってしまった。冗談でしょ、と。

笑ってすぐは諦めの気持ちから眠気に襲われたものの、しかし3000円払った分は楽しまなければと思って舞台に食らいつく。必死で見る。すると、発見も多い。
6人の役者が、舞台上の様々な場所でそれぞれに踊り狂っているから、同じ場面でも視点を移せば見えていなかった部分がある。「ここでコイツはこんなことしてて、だから観客は笑ってたのか」とか、「この場面でコイツはこんな動きで参加してたのか」とか。奥行きも高さもあるので、一度では視界に全て収まらない。そうして視点を変えつつ同じ場面を見ることで、脳内に風景としてではなく空間が保存されていく感覚があった。また、一度観たものがそのまま目の前にあるというデジャヴュの快感もあった。

文句を垂れていても始まらないので開き直って舞台に集中することが出来た。普段の生活では、同じ作品を(よっぽど好きでもないのに)3度も繰り返して見ることはない。この体験が無料なら僕も途中で退室していたかもしれない。演じる側と見る側双方の努力があって成立する作品だと感じた。

そして二周目ラスト、Banvox-Laserが流れだした時、もう役者はへろへろに憔悴しきっていたように見えた。
それでも全力で同じダンスを再生する。その切実さに僕は声を上げて笑った。特にあの細長い人。

この時点で、役者は再生しているのではなく、再生させられているのかな、と思った。勿論彼らの上には演出家が居て、一切動きを変えずに再生することを強いられているという意味でもだが、神のような存在に、人間が、ひたすらに再生することを強いられているのでは、と想像が働いた。そう思えば舞台奥に張られたしめ縄は神縄そのものであるように見えた。「再生」って行為自体に思いを馳せても、自然界にはそもそも全く同じ行為が再現されるなんて事象は起こりえないわけで、それを可能にするのは、デジタルに記録された音楽か、神による上演ぐらいのものなのか、なんて思いながら3周目を迎えた。

疲弊しきった(ように見える)役者が、想像通りとは言え3周目を踊り始めたときには、やっぱり笑ってしまった。そして、「もしかしたらコイツラは再生させられているのでは?」と思うと、役者への同情の念が湧いた。それは舞台上のキャラにも、メタ的な意味での役者にも。彼らはこの再生を、毎日行うために、走りこみをし、細かい動きの手足一挙手一投足を完璧に記憶するため何度も何度も反復し反復し、練習を重ねてきたのだろうなと想像すると、応援してあげたいと思った。意味の分からない音楽に合わせて理解の出来ない踊りに奔走する彼らが、初めて共感の対象になったのだ。

この時点で、演劇を見ているというよりも、正月に駅伝を見ている感覚に近くなったと思う。
僕はただ必死で頑張っている様にゲラゲラ笑い、涙をこらえ、応援することしか出来なかった。


共感という意味では、物語性のないダンスに時たま現れる、女性を誘って断られたり、スカートをめくって怒られたりする一幕は、彼らが思考能力のない人形ではなく、観客と地続きの人間であるってことを示してたのかな。あれは明確なコミュニケーションだった。

メタ視点を携えてみると、この狂乱も神聖な儀式のように感じられ、彼らの叫びの一声一声が、神に向けられた怒りや悲しみの慟哭に聞こえる気もした。

岩井秀人×快快「再生」は、こうした(言葉で説明すれば他愛のない)思考の流れを客席で自主的になぞることが出来る希有な場であった。KAATは音響もサイコーで、ダンスフロアみたいに低音がズンズン響いて、Youtube音源を僕の低スペックPCで再生するだけでは味わえない快感があったよ。

楽しい体験だった。友人の下駄(id:hiyorigeta)はもっと高尚な感想を書いてました。ポストドラマ演劇の死と再生や。演劇の虚構性の超越や。なるほどなぁ。


岩井秀人のTwitterから知ったセットリストwww.youtube.com
CONGA FURY-JUNO REACTOR
CREEPING DEATH-METALLICA
威風堂々
WORDY WRAPPINGHOOD-TOMTOM CLUB
POLYNESIA-石野卓球
MY TIME-bo en
LASER-banvox

bo en の MY TIME はアルバムごとフリーダウンロードできる。やったね。maltinerecords.cs8.biz
DOWNLOADをクリックするとZipファイル形式で落とせます。

(了)

「敬虔>愛よりもアプリオリ」

期待していたより面白くなかった。その理由は、「いちごパンツを撃鉄に」、で見せた岡本氏のイメージから外れる要素が殆ど舞台上に見られなかったから。今回は宗教と愛、がテーマらしい(そうであるように告知からは読み取れる)が、宗教という人類史上最難の題目に対して言及している様子は殆ど感じられなかった。舞台にあったのは盲信と自慰で、それは前作にもあったものだ。
加えて、当日パンフや稽古ブログにおいて(熱心なファンかよ)、「この作品がオナニーである」と言及されていたため、観劇の態度が少し穿ったものになってしまった。言葉遊びや身体表現、歌に踊りなど、「お前が楽しくてやってるだけじゃないのか」と感じてしまう部分もあった。勿論これは、観客が製作者の解釈を馬鹿正直に「信じる」ことに対する岡本氏の皮肉なのかもしれない。
話に意外性が少なく見ていて退屈だったことも印象を悪くした。

否定的な感想しか書いていないが、勿論面白いと思った箇所も多くあった。

appleのロゴを齧られた現在の象徴として使ってたとこ
・「1回だと何を言ってるのかよく聞こえないが3回も繰り返せばさすがに聞こえる冗談」メソッド
・射精 しゃっせーん(射精してごめんなさい)
・速めかつ長めの語りの台詞のなかの浮かぶカタカナ(オピニオンとかアプリオリとか)
・マイクと拳銃の組み合わせ
・世俗にまみれる→強姦かよ勘弁してくれよ(僕の思考が世俗に塗れているのかもしれない)→アイドルでした
・最後の歌
・言葉選びはやっぱり上手い(資料→思慮とか…あまり覚えてないけど)
・替え歌もよかったけど、幸せなら手をたたこうは過剰だったように感じた。それはダイジェスト版で一回見たからかもしれない。
・排泄物を食べる超存在=究極的自慰存在


ちょっとうんざりした部分
ジュマンジは女だ という文字演出
ジュマンジのくだり
・自分の性衝動をぶつけるだけで最後まで結局自分からは何もしないのに「主人公」立ち位置の男(既視感)
・アイドルソング(全く違和感はないが、曲を作るのが好きなんですね……ぐらいにしか思えなかった)
・わざわざ観客席から這うタヌキ


結局この芝居で他者のことを思って登場人物が慟哭したのはラストシーンの少女だけで、それ以外は全部自分に対してか、或いは自分が見た幻想に対して喋りかけてるだけだったので、この芝居が他者に対して殆ど開かれていないことを揶揄して「オナニー」と言ったのかな、と思った。そして最後の少女の叫びに対しての答えは、示されないまま舞台は終わった。


あと、Re-mixを見た時に「トツ!チン!オウ!チツ!トツ!チン!オウ!チツ!」と背景で歌ってるのが面白いなと思って、「凸!=男根!凹!=膣!」という文字にすると下卑すぎる掛け声が、カタカナ語とすることで意味を失い単なるリズム刻みに姿を変えていて、今回も同様のおかしみが見えて、よかった。シュハキマッセーリ、シュハキマッセーリ。

あと本筋とは関係ないが、ナントカタヌキが食物連鎖から抜け出てるならヒエラルキーの頂点には居ないだろと思った。