ああああ

漫画・本・映画・演劇・その他コンテンツの感想を書く場としてがメイン。日本語の練習を兼ねています。

平田オリザの本を二冊読んだ。

コミュニケーション力を引き出す (PHP新書)

コミュニケーション力を引き出す (PHP新書)

を読んだ。別々に感想を書きたいところだが、内容が重複していることと、記憶が混濁していることから、両方にまたがって適当に書く。

前者「コミュニケーション力を引き出す 演劇ワークショップのすすめ」は、例えば企業の管理職みたいに、組織のコミュニケーションを潤滑にしたい人向けに書かれたお手軽新書と言った風。劇団衛星の主宰と寄稿しあって対談した一冊。

ビジネスマンを対象に実際に行った演劇ワークショップが記録されてて面白い。

【印象に残ったこと】
・社員を動かす動機付けは、会社のため+自身のため+社会のため という三面からの利点が必要。
・リアルさを実感させるためのロールプレイ→問題が発現する以前の段階での「気付き」が必要。ありきたりな答えに落ち着いてしまわないためのフィクショナルな部分。異常な価値観や問題の所在の曖昧さ。←「応用不可」の、状況。具体的な「こういうときはこうする」という杓子定規な学びよりも、もっと根源的な体験。
・恥ずかしいことを一緒にやることで生まれる一体感。
・ボールを投げるシアターゲーム。一つ目は名前を読んで、返事を聞いて、ボールを投げる。2つ目以降は、一個目を追いかけていく。互いのことを受け入れること。
・日々に忙殺されるなかで、互いのことを見つめ合うことを知らず知らずのうちに放棄し、非常に教義な文脈で互いを認識することに慣れてしまう。演劇を共同して作るということは、それぞれが持っている文法を白日のもとに晒し、その齟齬を修正していく過程である。


後者「わかりあえないことから コミュニケーション力とはなにか」は、近年しばしば取り沙汰される「コミュニケーション力」により焦点を当てた一冊。
「コミュニケーション力」が問題とされるようになった時代背景と、現在の教育・福祉・社会構造における課題を明らかにし、具体的な対策を語る。
具体的な教育方法は述べられていないが、考える材料を多く与えてくれて面白く読める。
具体的なワークショップの方法論に興味のある人は

とか別の本を参照すればいいと思う。

【印象に残ったこと】
・「コミュニケーション」という点で、日本社会全体は、「異文化理解」と「同調圧力」のダブルバインドに陥っている。これは、「明確な自己主張と、他者との折衝能力」と、「上役の意見を察し、輪を乱さないこと」の矛盾である。
少子化・個人化が進行するなかで、生活のなかで「他者」は減少した。甘やかしてくれる親・祖父母は自己主張せずともすべてを与えてくれるし、少ないクラスメイトは既に互いを熟知している。*1表現は他者を必要とするが、教室に他者は居ない。このように「わかりあう・察しあう」優しいコミュニケーションで幼小中高と育ってきて、いざ就職だという段になって「自己表現だ」「異文化理解だ」と投げ出される厳しい状況が存在する。
・根幹にあるべき「自分のことを伝えたい」と切実に希求する機会が存在しない。←体験教育で提供
・かつては「コミュ障」*2でも、技術職で十分食っていけた。→「顕在化」が起こった
・求められている「コミュニケーション能力」って、実は「スキル」や「マナー」と同じレベルの教育的事柄なのでは?*3←個々人の人格や資質に欠陥を指摘するほどの大した問題ではない。
・社会的な変化によって生じた現象を、個別の人間の責任に帰するのはお門違い。
・教師が生徒に教えすぎている現状。生徒が自らアイデアを掴もうとしている寸前に結論を提示してしまう。「ヒント出そうか?」と示唆するのも、あくまで「教師が用意した・やりたいこと」への道標でしか無い。そのほうが「教えた達成感」が得られるから?
・話し合っても結論が出ないこともあるし、そもそもそんな時間を費やすに値しない、ジャンケンで決めてしまえばいい問題もある。議論の題材を取捨選択する能力が子どもには必要。*4
・単に「台詞を喋る」ことだけでなく沈黙や不在自体が表現となり得るのだと気づく瞬間がある。
・「コミュニケーション教育」は「国語」か?→「国語」って科目もう要らなくない?「表現」と「ことば」に分けようよ。「表現」ではスピーチやダンス、演劇音楽図工など、「ことば」では文法・発音・発声を教え、外国語も混ぜることで自国語の相対化も図る。読み書き統一識字率向上という明治以降の近代における役割を、「国語」は既に終えているよ。*5
・俳優に負荷をかける=ある台詞を口にするとき、右手でコップを掴み左手で新聞を引き寄せるといった複雑な動作を強い、またそのとき視界に写っていることや聞こえる音を記憶させる。=意識を分散させ台詞の力を抜く。+「無駄な動き」(自然な人間らしさ)が、持続する。
・抑揚で台詞を強調する文化は日本にはほとんど無い。むしろ重要な語句の倒置、反復がメイン。→「芝居がかった」とされるアクセントの強いセリフ回しは、西洋の近代演劇を表層的に輸入してしまったことが原因。
・「会話」と「対話」の区別。「会話」は近く親しい文化を持つ人々のくだけたお喋り。「対話」は、親しくない人間を含む、異質の価値観や情報の交換。或いは、その摺り合わせ。
・「わかりあう文化」=「会話」の文化
・「会話」からは情報は得られない。「対話」するからこそ物語が動き、観客の情報が与えられる。
・日本語には、対等な関係で褒める語彙が極めて少ない。例えば英語だと、wonderful, terrific, fabulous, greatとか枚挙に暇がないが、日本語では、敬語になるか、見下すかになってしまう。*6
・日本語が「対話」において貧しい言語であるために起こっている問題例。女性が男性に命令する言葉遣い。女性上司-男部下。看護師-患者。赤ちゃん言葉になってしまう、或いは、非常に厳しい口調に聞こえてしまう。「これ、コピー取っとけ」「これ、コピー取っていて頂戴」(男女で違和感)→問題の解決のためには、男性上司も部下に対して丁寧な言葉で、つまり、「対話用の言葉」を用いるべきではないか。「これ、コピー取っといてください」←言語権力者(壮年男性)こそが態度を改めるべき。
・シマ・ムラ社会と多民族社会の文化の違い。どちらが良いということではなく、日本でも後者の様式が求められる状況になってきたということ。
・社会的弱者は往々にして言語的弱者(自分の状況・感情をうまく伝えられない)でもある。論理的に話す能力よりも、論理的に話せない人の感情を汲み取る能力のほうが重要ではないか。
・「演じる」=「社会的に要請されている役割をこなす」ことこそ人間が人間である所以なのだから、もっと肯定的に、演じることを楽しもう。

*1:筆者は地方の廃校寸前の小中学校を例示しているが、僕は一応田舎出身だが「学校にもはや他者は居ない」と感じたことはないし、あくまで一部の例だと思う。

*2:筆者は「口べた」と言ってる

*3:ナイフやフォークの使い方のような

*4:「戦略とは、限られたリソースをどこに分配するか決めることである」って瀧本哲史先生の授業で聞いたんだけど、まぁそういうことだと思う。人生は有限。

*5:日本は発音を教えない数少ない国、という指摘があった。確かに習わない。「するめです」のすの発音がそれぞれ違うって知ってた?

ダーリンは外国人(2)

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*6:万能な形容詞として「かわいい」が挙げられていた。あとはなんだろう。「すごい」「かっこいい」…。「ナイスショット」「どんまい」「オッケ-」など外来語に頼らざるを得ない現状らしい。まぁ確かに「お上手」「流石」は謙ってるし「なかなかだな」「よくやった」は上から目線だ。