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ああああ

漫画・本・映画・演劇・その他コンテンツの感想を書く場としてがメイン。日本語の練習を兼ねています。

劇場版聲の形を2回見てスタッフトークを聞いた

スタッフトークの感想の後、映画の感想をまとめます。敬称略。

スタッフトーク(2016/09/27 MOVIX京都)

山田尚子監督とキャラクターデザインの西屋太志が登壇して、制作の裏側についての質問に答えていた。山田監督がデへへへ笑ってたことが印象に残っている。あまり特別な発言はなかったように思うけど、

・劇場版は映画として、原作とは違う作品として作ったこと
・キャラクターデザインにおいては丸みを意識したこと
・長く(永劫に)愛される作品を目指して作ったこと
・シリーズを経ずに映画を作ったのが初めてだったので、チームワークを強く意識したこと
・硝子は「肉感のあるキャラクタ」と大今良時から聞いていたから、やや寸胴気味に、対して植野はすらっと伸びていくように描いた、と言っていた
大今良時の絵柄に対しての愛着もある中で、どう映画で動かせる絵にするか、という部分は、映画としての「聲の形」の雰囲気と合わせてかなり監督と話し合った
・ポスターの空の青、空に交じる黄色の粒、挿す陰さえも青が交じる部分などは、作品の中で徹底されている部分らしい(特番でも空については触れられていたなぁ)
・長束はスタッフ内で書いてて人気だった
・マリアの髪型はカニなんですよ!(山田監督)

とかは覚えてるかな。『聲の形』についてとても真摯に向き合っておられるなぁと思いました。

映画の感想

僕は原作の漫画がとても好きで、映画二回目は公式ファンブックと原作を読んでから向かいました。そういう前提の元の感想です。

(是非はともかく)映画と原作は別物

原作を読んでもわかるし、公式ファンブックを読むと尚の事わかるんですが、原作は漫画という表現方法を最大限活かすべく表現方法とストーリー展開が選択されています。だからそれをそのまま映像化しても仕方ないし、映画という表現媒体に合わせた内容に変えるべきだと考えられているんだな、と見て思いました。
例えば、原作では基本的に物語は将也目線で進むため、「将也が見る世界」を描いていました。しかし映画は「登場人物たちをどう切り取るか」という視点が強く働いていたと思います。それは例えば、言葉を発している人物の表情をあえて画面から隠す技法(植野が西宮と初めて再会したシーンなどの、植野をめぐる場面で顕著)や、同じ空間に居る2人をあえて別々に撮る技法(鯉に餌をあげるときとか)とか、客観的なところにカメラがあることを見ていて強く意識しました。原作では、常に将也に視点がある分、昏睡状態に陥ったとき各キャラクタに初めて焦点が当てられ、それまでの話の筋に多視点が追加されます。しかし映画ではそこはかなり省略され、将也と硝子を中心とする話に収まっていました。これはある種必然だなと思いました。また、カメラ視点が自由な分、原作では省略されたという*1硝子の右耳の聴力がひどく低下したシーンが追加されていました。

石田将也の性格

また、映画と原作の将也は、その性格において質的に違っていると感じました。原作の将也は、いじめを受けて孤立して以降、クラスメイトを始めとする他人を見下すことで自分を保っていたと思います。他人の顔に張り付いた×マークは言わば将也が他者に貼った「レッテル」の象徴でした。しかし映画においてはその攻撃性は削られ、将也はかなり優しい、弱さを抱えた存在として描かれていたように思いました。例えば、教室で川井やクラスメイトに将也がアテレコする場面でも、原作では彼らに悪態をつきますが、映画では頭を抱えるだけです。その後、クラスメイトが将也に「飛行船が飛んでいる」と教えるのに自分の世界に没入していて気がつかない、というシーンが挿入されるのも、劇場版の将也の内向性を宣言するためなのかなと感じました。こうした差異は、長束と並んで弁当を食べているシーンでも見られました。原作では「同じだと思われたくない」と言って席を立ちますが、映画では気にせず硝子のことに思いを馳せます。こうした性格の差異は、デザイン上の「丸み」という部分にも表れているのかな、と思いました。

恋愛濃度

さらに、映画の将也と硝子の関係は、恋愛濃度がかなり高まっていると思います。象徴的なのは、将也が硝子を引き上げ、代わりにベランダから落下するシーンで、「そういえば、西宮が俺のことどう思ってるのか 聞けばよかった」というモノローグだけが残ったことです。原作ではこの部分は、将也の懺悔と自罰の中、最後に語られたものでした。過去への自罰感情とどう向き合うか、という筋書きの中で、彼らの恋愛感情は付随的なものに思えます。これは、原作の将也の中には硝子に対する贖罪の気持ちと同時に、他者と向き合っていないことへの劣等感も強くこびりついているからだと思います。映画版ではそれは、他者への恐怖というかたちを取っていたように思えます。

映画の評価

僕は映画について、将也が昏睡状態に陥り、硝子が友達行脚を行い、火曜日の瀬戸際に橋の上で慟哭するシーンまでは非常に感嘆していたのですが(早見沙織はすごいなぁ)、橋の上での二人の会話があまりに恋愛めいていたことで、不安な気持ちになってしまいました。将也(原作)は、泣く硝子を抱きしめることをしませんでした。「生きるのを手伝って欲しい」とは、いじめられても目の前で友人が喧嘩別れしても祖母の葬式に参列しても涙を流さない硝子に対しての切実なメッセージであり、同様に命を投げ出しかけた将也の自らへの宣言だったはずです。ただ、映画では、「もっとみんなと一緒にいたい 遊んだり笑ったりしたい」という部分が省略されていたような気がして、プロポーズみたいに見えてしまって…ウウウ頭がという気分になりました。硝子に手話を作らせ手を握って照れたことで、将也の自意識がシーンに表れてしまいました。ここは、「言うべきだったのに言えなかったこと」を伝える場面であり、結絃が出来なかったことを代行する場面でもあります。作中で積み重ねられたディスコミュニケーションを一気に乗り越えるシーンです。しかし、個人的にはこのシーンが、直前の早見沙織の叫びに負けていたように感じてしまいました。もうちょっと時間を割いてもよかったのでは、と思う反面、「相手のことを勝手に解釈していた」という反省は、原作の各キャラクタの内面に踏み込む描写があるからこそ成立するような気もするし、映画としてどうあるべきだったかは…。よくわかりません。この部分についてはあまり言語化出来ていません。

ところであの場面で将也が作ったのはやはり「ともだち」でしょうか? 硝子は「約束」と返していたようですが……。

ラストシーン

そして、将也が涙を流して終わります…。この終わらせ方についても、僕は手放しで褒められません……。それはなんとなく2つの理由が今思いつくのですが、1つ目は「涙を流しすぎなこと」と、2つ目は「このシーンで幕切れなこと」です。このシーンは、たとえ他者によって傷つけられるとしても他人という存在を受け入れて生きていくことを将也が選択するシーンだと思います。ここで今まで内面化していた他人への恐怖を受容できたことは、確かに一つの劇的な瞬間ですが、ちょっと演出が劇的すぎませんか? 強烈な音楽効果と大粒の止めどない涙によってこのシーンは、将也の内面的変化に自己救済の色を強めすぎているように思えて……涙を流すにしても、笑っていてほしかったなと思います。これは、a spot of lightの中に見える2つの影の意味がよくわからないことに起因するかもしれません……。あと、2つ目の理由については、将也の自己救済で終わると、将也が気持ちよくなるためにこの物語があるように思えるので、せめてスタッフロール中でもなんでも良いので、その後の映像が見たかった。ここで言うその後とは、成人式でなくても、涙を流した将也を囲むみんなとか、その程度でよかったので、自己受容という変化ではなく、自己受容をして生きていくという継続的なものが見たかった。

ただ、原作から登場人物個々人への踏み込みを削って、将也と硝子の物語に的を絞って恋愛濃度を高めた(aikoの歌も『恋をしたのは』だ)のだから、この終わり方も筋が通っていると言えるのかもしれない……。

その他映画について

・声優はみな良かった 僕は元々特に結絃が好きだったのだが、悠木碧の演技はサイコー 
・構成 喧嘩別れのシーンと祖母の葬式を時系列的に入れ替えていて、確かに映画の盛り上がりの動線としてはそっちの方が良いんだろうなと思いつつも、祖母が死んで間を置かずに硝子が身を投げているようにも見えて難しいなと思った
・映画ならではの動きを活かした演出(エスカレータですれ違うとかジェットコースター乗るとか)すき
・雨の中家出した結絃に将也が傘を差し出す構図と、終盤植野に硝子が傘を差し出す構図を重ねてて、短い時間で印象を強めるのが上手いなと思った
・音楽よかった(特に将也がカメラを取りに西宮家に行ってからのとこ。葬式のシーン音割れしてたんだけどMOVIXの問題?)*2
・二時間ちょいで『聲の形』が味わえるのは凄まじい(長い作品は見ていて疲れるし、時間をかけることで失われる体験の価値もあると思っています。)
・スピード感があるので、火曜日、手話(見覚えのある動作がすぐ出てくる)、水の波紋など重要な小道具がわかりやすい
ポニテ、あぁ^^~~~~(みんなかわいい)
・自罰感情から怒れない将也を見て、結絃は硝子のことを思い出したんだろうなとわかった


・「あなたがどれだけあがこうと 幸せだったはずの硝子の小学生時代は戻ってこないから」「はい!」があってほしかった
・西宮母が植野をビンタしまくるところ、作品屈指のギャグシーンだと思っているので省略されて残念だった
・真柴が装置だったので悲しかった(友だちになれたと思っていたのに……)(でもヘラヘラはしてる)

映画を見た人は原作を読むべきか?

何度も言ってきましたが映画と原作は別物でした。僕は映画も(ラストを受け入れられていませんが)よく出来た作品だと心から思っています。動的な演出や音楽、声優の演技、象徴の使い方も含めて、漫画とは異質の面白さが詰まっていると思います。
ただ、原作は含まれている情報量が桁違いで、ストーリーの深さが比べ物にならないので、映画を見てなにか思うところがあった方なら、ぜひ原作を読んでみるべきだと思います。というか、原作読まずに映画見た人、あのスピードについてこれてるんですかね?

漫画の『聲の形』の面白さは、キャラクターたちの明確な存在感にあると思います。登場する人々が全く違う価値観と全く違う背景を持っているのに、それぞれの思考回路が(共感できなくとも)理解できるというのは、ある種異常なことで、それを描ききれていることは大今良時の突出した能力の一つだと思います。聴覚障害やイジメという要素は独り歩きしやすいですが、『聲の形』はキャッチーな要素を越えて普遍的な問題に踏み込んだ作品だと、思っています。

公式ファンブックについて

公式ファンブックはページの2/3が読み切り(2パターン収録)で800円(+税)という阿漕な商売だと思いましたが、作中の演出やセリフの意図について大今良時が細かく解説してくれているので、これを読んで原作を読み直すと、作者の漫画構成力に屈服してしまうと思います(僕はしました)。大今良時は頭を使って理論的に作品を描くタイプの漫画家で、しかも、読者がどう読むかということにとても自覚的な方なんだなということがよくわかります。「漫画に情報を詰め込む上で、こんな工夫もあったのか」という目線でも勉強になる一冊です。原作ファンなら必ず買うべき一冊だと思いますし、フィクションを作ることに携わったことがある方なら違う意味でも楽しめると思います。
映画とは関係ないので、原作を一度読んでから読みましょう。

余談


公式設定資料集、初日の正午には売り切れてたので異常だと思った。
映画をキッカケに原作に手を出す人が増えると嬉しいなぁと思う。大今良時は2016年末に週刊少年マガジンで新連載予定らしいぞ!

*1:公式ファンブックp138参照

*2:追記。葬式のシーンの音割れは意図的なものであったらしい。ともすればメタ的な不具合と思えることを演出に加えるのは勇気のあることだなと思いました。友人は『音響が心情表現の演出に深く関わっているのは、ラストシーンで将也が耳をふさいでいた手を外すことにつながっているのでは』と言っていました。へ~。でも音割れが誰のどういう心情を暗喩しているのかはよくわからないからあんまり評価できないな……。