ああああ

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ハイバイ・ヒッキーソトニデテミターノ 伊丹公演 感想

3月9日金曜日、お昼に伊丹AI・HALLにて。

本公演「ヒッキー・ソトニデテミターノ」は、ハイバイの旗揚げ公演である「ヒッキー・カンクーントルネード」の続編にあたり、話の時系列もその後に位置づけられている。私は鳥取にて前作を見たことがあった。ハイバイの作品を見るのはこれで5度目(AI・HALLで『て』、名古屋で『おとこたち』、鳥取で「カンクーン」、DVDで『ある女』)だった。岩井作品としては『再生』も見たことがある。
ハイバイの作品を見ると、たいてい私はぐったりと消耗する。全体として笑えるところが多いし、個人的で些細な話のように見えつつ存外テンポよくドラマが進行するので退屈は感じないのだが、描かれる人間のありようはとても生っぽく、舞台上でも安易に解決されないため、幕が下りた後*1も、心の中にどろっとしたものがとどまり続け、生活の中に残る。だからいつも見てけだるい、嫌な気持ちになるのだが、どうしてもまた劇場に足を運んでしまう。それが不思議だった。

特に今作は、今までの作品と比べても非常に良く出来ているな、と感動した。
「ソトニデテミターノ」は続編という立ち位置でありながら、前情報なく楽しめる。前作の主人公が今作も中心的役割を果たすが、彼の過去も、回想というかたちで挿入されるし、そのシーンだけで十分成立しているので、前作を見ていれば懐かしく思えるおまけがつく程度だと思う。「ソトニデテミターノ」は、前作のラストシーンで外に出ることが出来た主人公が、引きこもり対応施設のスタッフとして勤労しており、他の引きこもりやその家族らのドラマが展開される、という筋である。

非常に面白いなと思った点は、まず、家庭内における異物としての引きこもり、の視覚的表現だった。家の中に一緒に暮らしているのに他人行儀で、愛情と恐怖の対象としての、引きこもり。子どもだったはずの存在が、いつのまにか化物のような姿に感じられるほど距離を取ってしまった。そして登場する引きこもりたちのコミュニケーション不全は、いずれもコミカルでありながら痛々しかった。論理だったふりをしながら自己防衛的で、自らの不安に対して多弁がちで、容易に他者への攻撃に転化する。或いは完全に自閉的である。とにかく、傷つかない環境に閉鎖していたが故に、傷つくことにとても臆病である。その姿は滑稽でさえあるが、普段の私達と連続的でもあった。

そこに向き合う家族の姿にも、自分の家族に翻って、様々な思いが去来した。「お母さんがそうやって自分の罪を償おうとするから、息子さんも償わせようとし続けてしまうんじゃないでしょうか。そこに終わりはありませんよ」とか、「無条件に愛し続けるなんて無理でしょ」とか。結局死ぬことを選んでしまった彼とか。

また、群像劇的性質と現在と回想を頻繁に往復する構造を持ちながらも、わりあいシームレスに場面が移動することで、テンポが崩れず、観客の集中を切らすことなく複雑な時系列が提示されていた。単純に演出が巧いんだろうなと思う。例えば、岩井秀人の回想(ヒッキー・カンクーントルネードのラストシーン)が、夢だとわかる繋ぎ方、かつそれが飛び込みへの暗示になっていたところ。父親の逃避的妄想から息子の送別会に至るところ、など。モノや舞台空間の扱い方も、演劇的前提を使うのがあまりに上手いから気づかないけど、いちいち解説したら勉強になりそう。

今作を見て、なぜ自分がハイバイの芝居をついつい見に行ってしまうのかという答えが一つ見つかった。ハイバイが舞台上に乗せる問題は、非常に個人的で、かつ普遍的で、さらに深刻なもので、手触りを感じるほど生々しい。状況は個別的であるものの自分の人生の過去・現在・未来のどこかと地続きであるように感じるし、それぞれの人々の葛藤は笑い飛ばせるものではないし、無為とも思えるほど非常に丁寧な口語台詞に裏打ちされたリアリティは創作とは思えない。しかし、ハイバイは、現実の抱える歪さを巧みに描き、かつ明確な解決法も示してはくれないけど、ニヒリズムに陥っていない。そう感じた。描かれるものを消化しきれず、陰惨な気持ちになるものの、それでも絶望だけが残されるわけではない。それでもなにか、しなくちゃいけない、なにか、笑えるような気持ちを持っていこう、持っていけるかもしれない、明日は続くし、という、曖昧なレベルの、でも確実に前向きな作品だと思う。だからまた見に行きたいと思うのだろう。

あとは色々思ったことをメモしておくと、実際に引きこもりの経験を持ち、このような作品を作り、自ら演じている岩井秀人の作品を見たあとで、彼に「外に出てみてよかったですか」と聞く、その暴力性ったら無いな。/ラストシーン、「えっ、おいおい、そっち、行って良いのか?」と思ったのは、私だけか?/「ある女」みた直後だったから平原テツの父親がいいつブチギレるのかと恐恐見ていたが、普通の人だった。/ハイバイの作品で笑いどころが多いと感じるのは、シリアスなシーンが多いことの裏返しでもあるなと思った。舞台上で人々が険悪だったり悲壮だったりしているときに、ある人間がわざとおどけてみたり緊張から失態を犯したりすると、一観客としては舞台上のストレスから逃れようと笑ってしまう。僕は特にそういう観客だ。緊張と緩和というけど、ハイバイは緊張を作るのがすごく上手いなと思う。

以上。

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3/30 追記
散発的に付け足す。今作は「引きこもり」を題材にしているが、あらゆる問題はグラデーションを持つものだと私は思っている。どこからが引きこもりなのか。どこからが「上手くやれている」のか。外に連れ出すのがいいことなのか。自殺はよくないことなのか。
本作の特に優れた点は、視覚的なデフォルメとふんだんな冗談を取り入れながらも、先に述べた複雑性を毀損していないところだと思う。
私達はみな完璧な存在ではない、というといかにも陳腐な一般論として響くが、ハイバイはそれぞれの視点からの正当性を(必死さを)舞台に載せることに成功している。それが今作において特に光っていたように感じられた。
岩井秀人演じるキャラは、話の筋では、過去の不安をなんとか克服した立ち位置に(相対的には)居る。しかしそれが終盤でふっと違う観点から語られる。それが夢に見る「決断のとき」のリフレインであり、葬式での口論である。

「不安と向き合え」と語るものの持つ不安。「正しさ」を語るものの感情的な(人間的な)いらだち。そして不可逆的な結果。

自己矛盾を晒し、解決しようのない問題(時間的不可逆性)に晒されて、それでも人生を続ける人々。
正しく生きるとは、これが正しいと盲信することに過ぎないのかなぁ……。

答えを岩井秀人は提示しないしするべきでもない、したとしても聞くべきではない。と思う。
次は「夫婦」を見に行くのが、楽しみでもあり不安でもある。

*1:幕は大抵無いけれども